近所にも水子供養をしている方がいる。
毎年、命日に墓参りに行っている。
幼くして我が子を亡くした人は、心に相当な傷を抱えるようだ。
長年連れ添った相手を亡くした事や、家族を亡くした者が抱く虚無感とは別の思いが募るようだ。
悲しみというのは、人それぞれであり、癒すにも時間が必要である。
水子供養のように、形として供養をすることは、人の傷を表現するのに方法としては良い。
人間は、思いを形に表すことで、外に出して表現をすることで、解決していく過程を踏むそうだ。
しかし、最近は水子供養も近代化している。
インターネットで法事を行えるようだ。
また、お墓もロッカーのような簡易な作りに変わってきている。
それは、水子供養だけにいえることではないようだが、何事も簡略化されてきている。
それだけ、癒すのに時間をかけていられなくなったのか。
それとも、悲しむ気持ちさえ、謀殺される程、生活に追われる日常なのだろうか。
私は、母親を亡くしたが、寂しい気持ちは命日の近くになればなるほど、強くなると感じる。
でも、思い出す行為が故人をしのび、生きている自分たちは、命を大切にして生きようと思うのである。
法事を定期的に行う目的は、人間愛を深める機会でもある。
ほろ酔い加減に、笑って楽しく思い出話しをしてもいいのではないか。
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日本も、未曾有の震災で多くの方が亡くなった。
数年経過、数十年経過したときに、笑って楽しく思い出話しが出来るようになることを願いたい。
それもある愛の形だと思う。
水子供養は、関東では三大師で有名な佐野がある。